【記事】情報把握や課題解決をスムーズにする会議

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松尾法弘さん(株式会社長大)

会議の充実が不可欠な設計現場

会議にホワイトボード・ミーティング®を導入して3年。「短時間で方向性を出せるようになった」。そう効果を語る松尾法弘さんは、技術者として橋の設計に長年、携わってきた。自身がファシリテーターとしてホワイトボードの前に立つこともあれば、その姿をモデルにして学んだ部下に任せることもある。愚直に練習と実践を積み上げた結果、「最近は職場に小さな打ち合わせが増えた」。少人数でパッと集まって意見やアイデアを出しあって課題解決へと進む。そもそも橋の設計は、山積する課題との戦いだ。変化する設計基準を睨みながら、限られた工期で周辺環境や地形地質を分析し、構造的にも、経済的にも、景観的にも納得でき、安心して利用できる橋の設計をめざすのが技術者の仕事。ひとつとして同じ現場はなく、的確な情報把握と迅速な課題解決が求められる。会議や打ち合わせの出来、不出来も仕事のクオリティやコストに影響するため、設計現場の会議の充実は不可欠だ。「ホワイトボード・ミーティングを始めてからは会議が変わった」と松尾さんは語る。

 

まずはスケッチブックからスタート

とは言え、最初からうまくいったわけではない。松尾さん自身、進まない会議の打開策としてホワイトボード・ミーティングが有効と思いつつも、実際に前に立って進行役であるファシリテーターを引き受けるには勇気が要った。「まずはスケッチブックから始めたんです」。ホワイトボード・ミーティングの「黒、赤、青で書くルール」を駆使しながら、松尾さんは議論をスケッチブックに記録し、会議の途中で印刷して配ることを繰り返した。参加者からは「これまでの議論のプロセスが可視化されてわかりやすい」「話の切り分けや構造化ができる」「何を話し合えば良いのかが明確」と好評。議論がぶれずに進むようになった。「いける」と確信した松尾さんは、やがてホワイトボードの前に立ち、ファシリテーターとして会議を進行するようになった。

 

憧れだった技術者の仕事に就いて

松尾さんが技術者の道を選んだのは父の影響だ。高度経済成長の追い風を受け、山陽新幹線建設工事の進捗に合わせて西進する多忙な技術者だった父は、仕事の話をよく聞かせてくれた。一緒にキャッチボールをした自宅近くの原っぱも「将来は宅地開発される」と教えられたが、子ども心に信じられず想像もできなかった。しかし、やがて開発が進み、宅地造成され、家が立ち、街並みができて人々の暮らしが始まっていく。そのさまを眺めているうちに都市計画やまちづくりに興味を持つようになった。大学では構造力学の授業に熱中し、恩師や仲間との出会いに恵まれて、そのまま土木の道へと進む。1991年、数多くの吊橋や斜張橋の設計・施工管理を行う株式会社長大に入社後は、父と同じ技術者人生がスタート。設計一筋に歩んできた。ある橋の開通式の朝。両親を車に乗せて橋を渡った時に「夢のある仕事やなあ」と讃えてくれた父の言葉に胸が熱くなり、改めて仕事に誇りを感じた。「親孝行できたかな」と思う。

 

後進を育てていきたい

ホワイトボード・ミーティングに出会ってからは、自分や周囲が変わった。以前は厳しい現場課題に何度もへこたれそうになり、時には同僚や部下に攻撃的な言葉で詰め寄ることもあったが、今は、まず他者の意見を受け入れるようになった。「ホワイトボード・ミーティングだからボクの会議は手ぶらで参加できる」。そんな気軽さとぶれない議論の結果、短時間で方向性が出るようになった。ホワイトボードに書いた意見は、写真に撮ってリソースにする。例え話し合いの9割が雑談であっても、1割のアイデアが誕生すれば課題解決が進むことも実感。そして回数を重ねるごとにみんなでワイワイ言いながら「会議で一生懸命に考える風土」が培われてきた。「困ったときは仲間に相談したほうが早い」。職場のコミュニケーションが活性化していると感じている。次の課題は後進を育成することだ。技術者としても、ファシリテーターとしても、夢のあるまちづくりや建設の仕事に携わる後進を育てたいと考えている。

松尾法弘さん(ホワイトボード・ミーティング®認定講師)
1991年株式会社長大入社。構造事業本部 西日本構造事業部 広島構造技術部長。プライベートでは、(一社)関西まちづくり協議会の副代表理事。将来の夢は、まちづくりファシリテーターとして子ども達にまちづくりとそれを支える技術者の魅力を伝えること。